陳水扁総統が「さようなら、蒋介石」と題する文章を発表
陳水扁総統は12月6日、自身のメールマガジン「阿扁総統電子報」において、「中正紀念堂」(蒋介石メモリアルホール)が「台湾民主紀念館」に、中正紀念堂前広場の正門の「大中至正」の題字が「自由広場」にそれぞれ看板が架け替えられることについて「さようなら、蒋介石」と題する文章を発表した。以下は、その全文である。
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数日後にやってくる12月10日は、世界人権デーです。今年がこれまでと大きく異なるのは、強権統治と党国体制(党イコール国の体制)の象徴であった「中正紀念堂」および「大中至正」の題字が歴史上のものとなり、「台湾民主紀念館」および「自由広場」に取って代わったことです。1991年のソビエト連邦解体後、「レニングラード」という地名は「サンクトペテルブルグ」に戻され、ドイツ東ベルリンの「マルクス・エンゲルス広場」は「Schlossplatz」(シュロスプラッツ=宮殿広場)にその名が戻されました。バルト三国のエストニアでもソ連赤軍勝利記念碑が撤去されました。どうしてこのような変化が必要だったのでしょうか。それは過去の歴史に誠実に向かい合わなければならず、強権統治が残した不公平や不正義に対して、再び見て見ぬふりや、沈黙することをよしとすることを望まないからなのです。
「中正紀念堂」を「台湾民主紀念館」に改名できるのかどうかや「大中至正」を「自由広場」に変えるべきなのかどうかという問題は、「暫定古跡」あるいは行政手続き上の技術的な争議などでは決してなく、われわれが一人の独裁者を、人権を迫害した一人の強権統治者を、これからも神または封建の帝王として祀り祭り続けるのかどうかの問題なのです。蒋介石は二二八事件の元凶であり、兵隊を派遣して台湾の人々を鎮圧し、虐殺したことは、すでに歴史の定まった見解となっています。しかも、公開された政府の関連資料によると、蒋介石本人が直接処刑の命令を下した件が数多く見られます。「中正紀念堂」を維持し続け、「蒋介石生誕および逝去記念日」を維持し続けることは、反民主、反人権であるばかりか、さらには反台湾でもあるのです。中正紀念堂を守ろうとすることは「古跡」を守ろうとしているのでは絶対になく、蒋介石の神としての地位を守ろうとしているのであり、その背後に代表される党国体制と大中国イデオロギーを守ろうとしているのです。
蒋介石は1949年に国民政府とともに台湾にやって来て、1975年に逝去するまで、25年にわたる統治は、一日たりとも台湾住民の同意を経ていません。蒋介石の統治の基盤は、完全に一つの幻の大中国イデオロギーの上に構築されていました。蒋介石は、自身を全中国の統治者であり、台湾は中国の一部であるから、台湾を統治する権利があると認識していました。「大陸反攻」のため、国土を回復するため、台湾は戒厳令を敷いて軍事管理下に置かなければならないと考えていました。蒋介石にしてみれば、台湾は暫定的な足休めの場所であり、ロングステイに過ぎないものでした。今日、われわれが中正紀念堂を台湾民主紀念館に改名したことは、台湾の国民が過去半世紀にわたって自由と民主主義と正義を追求するための犠牲と貢献を明確に伝えるだけでなく、台湾の主体意識を新たに構築する意義があります。台湾はわれわれの母であり、台湾はわれわれの祖国であり、海峡両岸、台湾と中国は、それぞれ別の国なのです。
政権交替の前、法務部は1989年6月21日に立法院で「軍事法廷で受理した政治案件は2万9407件、受難者数は約14万人」と報告し、また同時に、1960年代に執政当局は12万2875人を「行方不明」だとして人口から削除しました。これは「二二八事件」後に、「清郷」と「白色テロ」が続き、公開あるいは秘密裏に処刑された人数が示されているのであり、きわめて見る価値があるものです。強権統治が台湾に与えた傷はかくも深いのです。過去の7年間あまり、私は政治受難者とその家族の人々と会見し、お話しする機会がありましたが、政府が彼らのために行ってきた慰め、賠償、名誉回復に感動しているとはいえ、彼らの心の中には依然、痛みや、疑惑、怒りがあります。なぜなら過ぎ去った歴史は元に戻すことはできず、真相も多くが尚明らかになっていないからです。
ある人は、後ろばかり振り返るのではなく、前を向いて歩けと言いますが、これはまるで一つの謀殺事件において、被害者だけがいて加害者がいないまま結審するようなものであり、いかなる人も受け入れることはできないでしょう。さらには別の人に対しては前を向けという人が、自分は後ろばかり見ている人もいます。一方では二二八事件の遺族と面会し、もう一方では慈湖(蒋介石の遺体が安置されている場所)の霊に拝謁を続けるというのは、すべての政治受難者およびその家族に対して何度も傷つけていることになるのです。
過去の強権統治者が犯したすべての暴行や罪は、われわれは寛容な心をもって許すことができます。しかし、われわれはこの歴史を隠滅することを許すわけにはいかないのです。どの受難者とその家族も、当時どうして迫害を受けたのか、誰が命令したのか、何のためにか等を知る権利があるのです。その中には純粋な政治的要素だったのか、あるいは意趣晴らし、さらには人違い、でっち上げ、冤罪など、もしも責任を追及せず、真相を明らかにしなかったなら、すべての受難者およびその家族は過去の歳月や先人の記憶を忘れるよう迫られるに等しいのです。
南アフリカの正義への転換の処理が成功した例として、真相がなければ和解はできず、和解がなければ許すことは話にならないということが証明されています。責任追及と、歴史を明らかにすることは、絶対に清算闘争ではなく、古い恨みによる報復でもありません。ただ受難者とその家族たちに公道を取り戻すことによって、すべての犠牲は意義や価値があったものと彼らに理解してもらうためなのです。これらは強権統治の反人権と反人間性の歴史への控訴と証明であり、さらには2,300万の台湾の国民が必ず汲み取らなければならない血と涙の教訓なのです。
【阿扁総統電子報 2007年12月6日】