台湾を救った奇跡のダム。台湾人が尊敬する「もう一人の日本人」
人気記事となった「台湾で最も尊敬される日本人。命がけで東洋一のダムを作った男がいた」をはじめ、これまで複数回に渡り台湾の歴史に名を残した日本人の功績を伝えている無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』。今回は、上記記事の主人公・八田與一(はった よいち)に指針を与えたという「台湾で尊敬されるもう一人の日本人」、鳥居信平(のぶへい)の生涯を紹介しています。
鳥居信平~南台湾を今も支える地下ダムの建設者
地下水路から、ひんやりとした風とごうごうという流れの音が吹き上がってきた。台湾国立屏東科技大学の丁澈士(ていてつし)教授が懐中電灯で地下水路を照らすと、銀色の光の先に浮かんだのは、透明な水しぶきをあげて流れる、凄まじい水量の清流だった。教授はこう説明した。
地下を流れている水だから、干ばつや豪雨の影響を受けないのです。一日あたり、雨期なら12万立方メートル、乾期でも約3万立方メートルの供給量を保ってます。
327.6メートルの地下のダムが川底を流れる伏流水を堰(せ)き止め、それを地下の貯水池として貯める。
川の底に侵み込んだ地下水は途中の土砂を通る過程で濾過されるので、大量の澄んだ水がここに集まってくる。どんなに豪雨が降ろうとも水は濁らない。また普通のダムと違って、もともと地下に埋められているから、底部に土砂が溜まることもなく、メンテナンスにも手間がかからない。動力もいらず、環境破壊もない。
この地下ダム・二峰シュウ(土へんに川)は大正12(1923)年に完成し、1世紀近く後の現在も、20万人の人々に飲用水、灌漑用水を提供し続けている。屏東県の県長・曹さんは「二峰シュウは南台湾の宝です。今後も大切に使い続けていきたい」と語る。
この「南台湾の宝」を作ったのが、日本人技師・鳥居信平であった。
「これほどの荒蕪地は、見たことがない」
信平が「台湾精糖」の農事部水利課長として採用されて、この地に着任したのは大正3(1914年)10月のことだった。屏東平原の東端の荒れ地約2,128ヘクタールを開拓して、サトウキビ農場にすることが、彼に与えられた任務であった。
信平は着任するなり、農場開設予定地の下見に出かけた。岩だらけのデコボコ道を車で行くと、体が跳ね上がるほど揺れる。荒涼とした風景の中を土煙を上げて走る車を、原住民が珍しそうにじっと見ている。信平は自分がいよいよ異空間に入ったことを実感した。
一行は、見渡す限り大小の石ころで埋まる農場開設予定地に到着した。案内する農事部の社員が言った。
乾期は、地下を2メートル掘っても一滴の水すら出てきません。3月は極端な干ばつが襲い、人間や家畜の飲み水はまったく手に入りません。ところが5月から雨期が始まると、こんどは洪水が襲い田畑は水に浸かってしまいます。
信平はしゃがみこんで、土壌を調べた。コンクリートと化した土層に、大小無数の石がぎっしりと埋まっている。「これほどの荒蕪地は、内地でも清国でも見たことがない…」
一帯を流れる林辺渓は上流の勾配が急なうえに、保水力の乏しい土壌のために、雨期の集中豪雨では氾濫し、乾期になると干上がってしまう。毎年の氾濫で石ころが平野を覆っていた。
「そうだ、伏流水を利用すればいい」
「どこに水源を見出せばよいのか?」。これが当面の大きな課題だった。信平と部下の技師たちは原住民の若者に案内役を頼んで山に分け入り、約2年にわたって上流の勾配や雨量を測定した。
早朝の涼しい時間帯から山に向かい、重いリュックを背負って、林辺渓をさかのぼる。
「ゲートルをしっかり巻け、氷砂糖を忘れるな、キニーネを飲め」と出発前に必ず信平は部下たちに念を押した。毒蛇が這い回り、マラリヤやペストなどが猛威を振るっている地域である。マラリアの特効薬キニーネと、体力の消耗を防ぐ氷砂糖が、命の綱だった。
夜は農場予定地の一角に建てた仮設事務所に戻って、データをまとめる。
調査の過程で、乾期に林辺渓が干上がっても、川床の下を流れる伏流水は途切れずに流れ、屏東平野の海抜15メートルの地点で湧き水として流れ出ていることが判明した。
「そうだ、伏流水を利用すればいい」と信平は気づいた。伏流水を地下で貯め、そこから水を取り出せば、湧き水が出ている地点より60メートルほど標高の高い地点でも、給水ができる。
地上型のダムとは違って、住民たちの狩り場や漁場としている清流をそのまま保つことができる。生態系にも影響が少ない。そして、民間の限られた予算でも実行可能な案であった。
「おまえは立派な顔をしているので首を家に飾りたい」
大正8(1919)年、信平は工事の基本計画書を策定し、総督府に提出した。同時に蕃人とか高砂族と呼ばれていた原住民の村落を回って、50人以上の頭目に計画を説いて回った。
先祖伝来の生活習慣を守り、聖地信仰の篤い原住民の了解を得るには、彼らと対等に付き合って、対話をしていくしかない。勧められるままに頭目の家で、シカ肉やタケノコを肴に、栗から作ったどぶろくを飲んだ。
信平は、彼らの狩り場や漁場に配慮して自然を壊すことなく工事をすると約束した。ある頭目とは義兄弟の契りを結んだ。信平は彼らの伝統文化の素晴らしさや、彼らが日本人以上に義理人情に厚く、勇敢で純真な人々であることに気づいていた。そして、台湾語や原住民の言葉であるパイワン語、ルカイ語も習得した。
ただ首狩りの風習を持っていることは本当だった。ある頭目からは「おまえは立派な顔をしているので首を家に飾りたい」と真面目に申し入れがあった。剛胆な信平はこう答えた。「まあ待て。この仕事が終わったらくれてやってもいい」
こうして信平は地元の同意を得て、大正10(1921)年6月15日、高雄州の知事や警察関係者、原住民の頭目らを招き、起工式にこぎつける事ができた。
「日本人が機械を使って固い土を掘った」
11月に乾期が始まると、川が干上がるので、川床を掘り起こし、長さ327メートルの堰を埋設した。さらに地下に堰き止めた伏流水を下流に流すために、全長3,436メートルの地下導水路を作り、そこからさらに灌漑幹線を三方に伸ばし、支線、小支線を通じて、2,483ヘクタールにおよぶ農場地、周辺農地に水が行き渡るようにした。
また荒れ地を畑にする開墾作業も困難を極めた。この一帯の土は大小無数の石ころが砂状の土とくっついて、非常に固いので、とうてい人力や牛の力では開墾できない。
まず野焼きをして灌木やツルを焼き払い、地表に出ている岩や石を人海戦術で取り除く。巨大な石はダイナマイトで粉砕した。
次いで大馬力のエンジンで動く深耕用カッターで2メートル以上も掘り起こしては、そのたびに手作業で石を取り除く。石を掘り出すのは男性の仕事で、それを女性達が大きなザルに入れ、頭の上にのせて捨てに行く。
工事、開墾に関わった延べ人数は、14万人以上にもなった。特に原住民の若者たちは、山から下りてきて、5日働いては、2日山に戻る、というスケジュールで働いた。頭目たちとは綿密に話し合っていたので、トラブルは皆無だった。
彼らは、信平らが持ち込んだトラクターや、カッター、耕耘機が動く様を食い入るように見つめた。「日本人が機械を使って固い土を掘ったり岩を壊したりしたでしょ、何もかもが珍しかったんですよ」と、日本統治時代を知る語り部チャーパーライ・サングさんは語る。
原住民の生活の向上
2年におよび工事が終わる頃になると、原住民の生活は大きく変わった。灌漑水が行き渡るようになって、用水路に沿った農地に移動して耕作をする人々が現れ、また作物も、水が少なくとも育つ粟、芋、ピーナツに代わって、イネを植えるようになった。
また賃金が貨幣で支払われたことと、総督府が移動交易所を設けたことによって、伝統的な物々交換が廃れて、貨幣経済が広まった。狩猟で獲物が捕れなくても、豚肉や野菜を購入できるし、釘、針、農具、ナイフ、布などが人気の商品となった。
郵便貯金に励む人も現れて、近代的な経済観念が原住民の間で広まっていった。
興味深いのは、一円銀貨に人気が集まったことだ。ピカピカ光ってきれいなので、祭礼用の冠にクマタカの羽根やイノシシの牙、ユキヒョウの毛皮などと共に、「大日本帝国明治41年」などと刻印された一円銀貨を飾り付けた。
大正12(1923)年5月、起工式から約2年後、付属の堤防や排水工事などすべてが完了した。地下ダムは「二峰シュウ」、新農場は「萬隆農場」と名付けられた。二峰シュウによって乾期でも作物ができるようになったので、収穫量は急増し、サトウキビでは単位面積当たりの収穫高は4~8倍となった。
二峰シュウと萬隆農場を開設すると、信平は休む間もなく、新たな地下ダムと農場の開設にとりかかった。こんども放置された荒野を買い取り、林辺渓の支流にあたる力力渓(りきりきけい)に堰を埋め、伏流水を取り込んで灌漑する計画である。
新たに1,700ヘクタールの「大響営農場」が昭和2(1927)年に開設された。洪水や日照りで土地を失った農民たちを入植させ、新築家屋、農地、耕作機械、水牛を貸し付けた。7年後には農家の人口が1,145人までに増加した。
農業土木技術者として尽くした30年
信平の活躍は、地下ダム建設と農地開拓だけに留まらなかった。新しい農場では地下水の排水にも細心の注意を払ってサトウキビの根腐れ病を防いだため、収穫高がさらに増加した上、土壌水分をコントロールすることによって、糖分が大きく上昇することが分かった。
また移住してくる農民が乾期にサトウキビを栽培しながら、雨期には自家用の米を自給自足できるようにし、さらに余った水量は芋などの雑作用の畑に回すようにして、2年および3年輪作を取り入れた。そのために、それぞれの作物別に必要な水量を正確に算出した。
信平が実施した輪作法を研究して、さらに大規模に、綿密に実施したのが、東洋一の烏山頭ダムを建設し、嘉南平野の100万人の農民を豊かにした八田輿一である。
信平は昭和13(1938)年、眼病のために『台湾精糖』を55才で退職した。25年間の在籍中に、約60カ所の水利施設と3万ヘクタール以上の農地を改良した。
退職後、東京に戻ったが、土地改良の経験と知識を買われて、昭和16(1941)年に設立された『農地開発営団』の副理事長に就任し、戦時中の食糧自給と増産を目指して、阿武隈川上流などの開墾作業に努めた。
終戦後は、満洲・朝鮮など世界各地から約630万人もの民間人、軍人、軍属が引き揚げてきたが、信平は海軍省の復員兵を受け入れる信州の野辺山開拓村の開設を担当した。
その仕事の最中、昭和21年2月14日、脳溢血で倒れ、翌日、帰らぬ人となった。享年63。31歳で台湾に渡って以来、30年以上も、農業土木技術者として世のため人のために尽くした人生であった。
「飲水思源」
台湾の実業家・許文龍は2008年春に二峰シュウを訪れ、丁教授から鳥居信平の功績を詳しく聞いて、胸像の制作を決意した。信平の胸像は3体、制作され、一体は二峰シュウの仕組みや歴史を展示した現地の「水資源文物展示館」に、もう一体が丁教授の務める台湾国立屏東科技大学に、そして残る一体が信平の郷里である静岡県袋井市に寄贈された。
袋井市の原田英之市長は、胸像寄贈の申し出に、「外国の人が昔の日本人の功績を忘れずに称えてくれる。なかなかできることではありません。その心がなによりも嬉しいではありませんか」と受け入れを快諾した。
原田市長は、信平の活動に「報徳運動」が影響しているのでは、と指摘している。
報徳運動とは小田原出身の農学者二宮尊徳の事績を源とし、質素、倹約、至誠の生活によって、農民・農村の救済・改革を実現しようとする教えである。袋井一帯には、昔から報徳思想の普及を目指す「報徳社」が設立され、そこの農民もそれに従った生活を心がけてきた。
その袋井で育った信平は、子どもの頃から、家庭や地域で、報徳思想に親しんできただろう。なによりも農業土木の専門家として30年もの間、灌漑と農地改良に打ち込んできた信平の生き様は、二宮尊徳の人生を髣髴(ほうふつ)とさせる。
台湾の庶民は「飲水思源」という気持ちを持っているという。「水を飲む者は、その源を思う」という意味で、まさしく丁教授のように信平の事績を伝えてくれている人々の思いは、この言葉に現されているのだろう。
同時に、二宮尊徳から報徳社の人々を経て信平を生み出した歴史の流れにおいても、われわれは「飲水思源」の思いを忘れてはならないだろう。現在の我々を支えてくれている歴史伝統の恩恵を受けている我々は、その源を思わねばならない。それが明日の日本を作ろうという志につながるはずだ。
文責:伊勢雅臣
〔MAG2 News 2017/5/31〕台湾を救った奇跡のダム。台湾人が尊敬する「もう一人の日本人」
http://www.mag2.com/p/news/251140