国発会の特別展、台湾における米食と小麦粉食品の歴史も紹介
行政院農業委員会(日本の農水省に相当)による「食糧需給年報」によれば、台湾における米の1人あたり年間消費量は2016年、44.5㎏まで落ち込んだ。米の消費量が減少する一方、小麦粉の1人あたり年間消費量は37.9㎏まで増加しており、米と小麦粉の消費量はますます接近している。また、台湾において消費される小麦粉は全て輸入に依存している。
かつて台湾では米が主食で、小麦粉で作られた「糕」(小麦粉を主な材料にして蒸して作った食品。また、カステラの類)、「餅」(小麦粉を練った生地を焼い作った食品)はせいぜい「おやつ」だった。国家発展委員会(国発会=日本の省レベル)档案管理局(公文書管理局)は様々な国家公文書を保管しており、現在、「生活・話当年:1950、1960年代国家档案影像特展(生活・当時を語る:1950~60年代国家公文書映像特別展)」を開催している。この特別展では、台湾の人々がかつて米を主食としていた時代から、今では米だけでなく、小麦粉を使った食品も日常生活の主食に変化している歴史も紹介している。
台湾が中華民国に戻った当初、中国大陸の各省は接収のため台湾に人員を派遣した。そのため中華民国政府は中国大陸で購入した小麦粉をこれらの人員の食糧とする必要があった。1949年には中華民国政府が台湾に移り、それに伴って中華民国軍の軍人や一般の人々がより多く台湾に移り住むことになった。食糧需要はたちまち倍増し、小麦粉は米国からの輸入へと転換した。
米国の台湾に対する援助は当初、借款と物資の提供だった。台湾は小麦粉、未加工綿、大豆などの農産物を輸入し、人々は小麦粉を麺料理にすることで物不足を補った。1953年、中華民国政府は米国からの小麦粉の輸入をやめ、直接小麦を買い付けることを決定。同時に民生工業の発展に向けて、各界が製粉工場を建て、出来上がった小麦粉を各地に運んで販売することを奨励した。
1954年、米国連邦議会はPL480法(余剰農産物処理法)を可決、友好国が米国で生産過剰となっている農産物を直接買い付けることを認めた。対象となった農産物は主に小麦だった。当時、白米の国際価格は小麦をはるかに上回っており、中華民国政府は「麺で米に代える」運動を強く提唱、廉価な小麦を買い入れては製粉工場で小麦粉にし、それを食用の米と交換して米を輸出。こうして外貨収入を増やした。台湾の人たちは米をより多くの小麦粉と交換できて喜び、一方で政府は米を輸出して外貨を稼ぐという著しい成果をあげたのである。
1962年、政府と米国、及び製粉業者が「麺麦食品推廣指導委員会(麺や小麦粉製品の普及指導委員会)」、「麺麦食品推廣執行委員会(同執行委員会)」を設置し、小麦粉製品の栄養は米以上で、小麦粉製品を食べることで体を丈夫にできると宣伝し始めた。小麦粉製品を食べれば直接ビタミンB1を摂取できる他、脚気も防げるなど、健康にいっそう有益だと強調したのである。
これらの委員会は小麦粉を使った食品の製作カリキュラムを作り、パン職人の技術訓練クラスを開いた。その後、マントウ(饅頭)やパン、小麦粉で作られた麺料理は子どもたちの給食の主食となり、各学校の調理学科が先を争って製パン課程を設けたことで、台湾のベーカリー(パン製造)業の基礎が築かれた。
農業委員会は近年、米に新たな価値を与えるため、米食文化の普及、並びに米食教育の普及強化に取り組んでいる。学生向けに米食の教育と普及プログラムをデザイン、国産の米と米粉を中心に、地元の食材を結び付けた新たな米食製品の開発を図る。また、「2018非米不可創意米食競賽(2018年米でなければ作れないアイデア米食コンクール)」を通じて教育活動の効果を持続させ、台湾産の原料としての米に対する台湾の人々の認知を深める考え。
Taiwan Today:2018年4月9日
写真提供:国家発展委員会档案管理局提供、中央社
台湾では米と小麦粉の消費量が接近している。国家発展委員会は1950年代から60年代の台湾における人々の生活を紹介する公文書特別展を開催、食習慣が変化する歴史も紹介している。写真は「麺麦食品推廣指導委員会」などが当時行った、小麦粉を使った食品の普及に向けたイベントの様子。なお、台北市における同特別展は9月22日まで。国史館(台北市中正区)にて日曜日を除いて開かれている。