中華民国の釣魚台列島をめぐる領有権に対する主張と「東シナ海平和イニシアチブ」
一、前書き
釣魚台列島は台湾の付属島嶼であり、その行政管轄権は台湾省宜蘭県頭城鎮大渓里に属し、歴史的、地理的、地質的、使用経歴や国際法から見ても、釣魚台列島が中華民国固有の領土であることは疑う余地がない。
釣魚台列島をめぐる係争に対する中華民国の一貫する主張は、国連憲章と国際法に基づき、平和的な手段で解決するという方針であり、さらに「東シナ海平和イニシアチブ」を提言し、当該係争を解決しようとするものである。
二、わが国の論拠
1.地理
釣魚台列島は五つの無人島(釣魚台、黄尾嶼、南小島、北小島、赤尾嶼)と三つの岩礁からなり、台湾北東沖の東シナ海に位置し、総面積は約6.1636平方キロメートル。最大の島は釣魚台といい、面積4.3838平方キロメートル。当該列島は北緯25度40分から26度、及び東経123度から124度34分の間に点在しており、南は基隆から102カイリ、北は沖縄の県庁所在地那覇から230カイリ隔てている。中華民国の最も近くにある領土―彭佳嶼からは73カイリ、日本の最も近くにある領土―与那国島からは76カイリ離れている。
釣魚台列島は黒潮が北向きに流れていく方向にあり、台湾と同じモンスーンに属する回廊にある。そのため、台湾の北部からここに来るのは追い風と順潮に乗せて、とてもスムーズであった。一方、沖縄からここまで来るのは比較的不便であった。
2.地質
釣魚台列島は東シナ海大陸棚の縁に位置しており、第三紀岩層によって噴出した火山島であり、台湾北部の大屯山脈、観音山脈の海底に延伸した突き当りにあたる部分である。地質的には台湾北東沖の花瓶嶼、棉花嶼、彭佳嶼と同じ構造である。
釣魚台列島付近の水深は200メートル足らずだが、一番東にある赤尾嶼からさらに東。或いは南小島からさらに南へ行くと、琉球諸島との間は沖縄トラフ(Okinawa Trough)によって隔てられている。トラフの平均水深は500メートル以上あり、最も深いところは2717メートルに達し、水色が真っ黒であるため、中国の歴史的文献では「黒水溝」と呼んでおり、中国と琉球を分ける自然の海の境界線となる。トラフの地質構造は「海洋地殻」(oceanic crust)に似ており、東シナ海の大陸棚が「大陸地殻」(continental crust)に属しているものとは明らかに違う。水深と地質的構造から見れば、釣魚台列島と琉球諸島は明らかに異なっている。
3.歴史
中国の明・清(1368-1911)時代の公文書から見れば分かるように、釣魚台列島は古来中国人によって発見・命名・使用され、長期にわたって無人島ではあったが、無主地ではなかった。1895年に日本によって盗み取られる前に、琉球諸島の一部に属したことはなかった。この事実は、1895年まで日本や琉球政府並びに民間の共通認識でもあった。
(1)発見、命名、そして台湾の付属島嶼として認定
明の永楽元年(1403年)に中国の書籍《順風相送》が初めて釣魚台列島のことに言及しており、これは当該列島が中国人によって最初に発見・命名・使用されたことを示すものである。その後の数百年間、中国の藩属国であった琉球の国王が即位する際、明・清王朝が何度も特使を派遣し、琉球国王を勅封した。中国の勅使(或いは副使)は、いずれも勅使記録―《使琉球録》―の中に、釣魚台列島の地理的位置と琉球の境目との関係を記載し、中琉航路における重要な道標となった。清以降、一部の《使琉球録》は、さらに一歩進んで中琉両国の黒水溝(即ち現在の沖縄トラフ)を「中外の界」にすると明記した。その中で、最も早く釣魚台列島を記載したものは、明の嘉靖13年(1534年)の陳侃《使琉球録》である。明の時代に日本に使節として赴任した鄭舜功は嘉靖35年(1556年)、《日本一鑒》という本の中に、「釣魚嶼、小東(即ち台湾のこと)の付属島嶼なり」と記録し、地図も添付した。このことからも、16世紀の中期から釣魚台列島が台湾の付属島嶼であるということがわかる。
(2)明は海防に組み入れ、清は領土に組み入れた
明の嘉靖年間、我が国の東南沿岸部は倭寇(日本海賊)の害が深刻だった。嘉靖40年(1561年)、鄭若曾の著書《万里海防図》は釣魚台列島を盛り込み、嘉靖41年(1562年)、明の海賊退治最高司令官である兵部尚書(防衛大臣)胡宗憲も釣魚台列島を《籌海図編》の《沿海山沙図》に盛り込み、我が国東南沿岸部の海防体系に組み入れた。
明の時代がそうであったように、清の時代も同様であった。台湾は康煕22年(1683年)、正式に清朝の領土に組み込まれたことによって、福建省台廈道台湾府となった。釣魚台列島も清朝領土である台湾の付属島嶼として編入され、嘉慶17年(1812年)から行政上では台湾府噶瑪蘭廳に属した。光緒11年(1885年)、噶瑪蘭廳を宜蘭県と改称した後、今日に至るまでその名称が使われている。清の御使巡察報告と地方編纂した福建省と台湾府の地方誌は、わが方の論拠の中で最も権威ある歴史的文献である。清の康煕61年(1722年)、台湾を視察に来た御使である黄叔璥が著した《台海使槎録》巻二《武備》の中に、台湾府水師艦隊のパトロール路線を綴り、さらに「山の後方、大洋の北、釣魚台という山があり、大船十数隻停泊できる」という記録がある。
乾隆12年(1747年)、范咸の《重修台湾府志》及び乾隆29年(1764年)余文儀の《続修台湾府志》、どちらも黄叔璥の記載を全文転載した。咸豊2年(1852年)の陳叔均《噶瑪蘭廳志》と同治11年(1872年)の台湾知府兼台湾守備司令・周懋琦《全台図説》の中にも、「山後の大洋に釣魚台という島があり、大船十数隻停泊できる」という記録がある。
同治10年(1871年)、陳壽祺の『重纂福建通志』では釣魚台のことを『巻86・海防・各県衝要』に記載し、噶瑪蘭廳(今の宜蘭県)の管轄下に組み入れた。地方志の「歴史的記録、管理、教化」の性質から言えば、清の地方志の海軍巡視船が釣魚台列島に停泊した記載は、歴史的記録を残したものとなっているほか、清朝の持続的且つ有効的に統治した根拠となった。上述した地方志は、釣魚台列島が台湾の付属島嶼であり、清国固有の領土であることを十分証明するものである。
清の同治2年(1863年)、官製出版した《皇朝中外一統輿図』も釣魚台列島を中国の領土に含めている。当時の外国地図もそうだった。例えば、乾隆50年(1785年、日本天明5年)、日本人の林子平が刊行した《三国通覧図説》の中の《琉球三省並びに三十六島之図》では、釣魚台列島を中国とともに赤色に塗り、琉球三十六島を薄黄色に塗り分けていた。これは釣魚台列島が中国領で、琉球領ではなく、また無主地でもなかったことを示すものである。
(3)中・日・琉の外交文書は、いずれも琉球領土には釣魚台列島が含まれていないことを確認している
清の光緒5年(1879年)、日本が琉球藩を廃止して沖縄県を設置する直前、琉球の紫金大夫向徳宏が日本外務卿寺島宗則に宛てた返書の中で、琉球は36島あり、久米島と福州の間に「つながっている島々」は、中国の領土であることを確認した。光緒6年(1880年)、日本の穴戸璣・駐華公使が清の総理衙門に提出した「琉球を二分割する」という提案の中でも、再度中・琉間には「無主地」が存在していないことを証明した。
(四)わが国民間の使用状況
釣魚台列島の主な三つの島嶼(釣魚、黄尾、赤尾)の名前は、いずれも「魚」と関係がある。これは中国の先人たちが、早くからここは漁業資源が豊富な水域だということが分かっていたことを示している。実は、この周辺水域では鯖と鰹が豊富で、地理環境と気候が台湾地区漁民の操業に適している。そのため、台湾北東部沿岸の新北市や基隆や蘇澳地区等の漁民の伝統的な漁場であった。わが国の国民の当該列島に対する使用は、これまで数百年の間ではごく自然なことであった。1895年以前にしても、日本占拠時代(1895-1945年)にしても、さらには1945年台湾が中華民国に復帰した後も、いずれもそうであった。1970年代初期、米国が釣魚台列島の行政権を琉球とともに日本に「返還」した後、釣魚台列島水域で操業していた台湾の漁民は、初めて日本の巡視船に妨害されたのである。
実際には、1895年に日本が台湾を統治し始めた後に釣魚台列島を琉球(沖縄県)の管轄下に編入し、1900年に島名を「尖閣諸島」と改めた。しかし、1920年(大正9年)、台湾総督府は依然として釣魚台列島水域を台湾漁民の「鰹漁場」と指定した。1925年(大正14年)、総督府が出版した《台湾水産要覧》も釣魚台列島水域を台湾の「重要な漁場」としていたのである。
(五)国際法
近代国際法は16~17世紀のヨーロッパに起源するものと言われているが、釣魚台列島が中国人によって発見・命名・使用された15世紀には、近代国際法はまだ誕生していなかったことから、当時まだ存在していなかった近代国際法の原則で当時の東アジア諸国の行為を律することはできない。しかしながら、厳密に近代国際法の基準に拠るとしても、我が国の釣魚台列島の主権に対する主張は、依然としてその基準に合致している。
(1)釣魚台列島は1885年の時点で無主地ではなく、日本は先占を主張することはできない
歴史的事実から分かるように、釣魚台列島はわが国によって発見・命名・使用され、領土に組み入れられ、更に公文書にも記載され、1895年日本に盗み取られる前に、中国は既に数百年領有していた。また、わが国の漁民も常に当該列島及び周辺水域を使用していた。そして、18世紀から19世紀にかけて内外の地図も釣魚台列島を中国の領土として表記していた史実は、誰も否定することはできない。
したがって、日本は国際法の「先占」(occupation)を根拠に釣魚台列島の領有権を主張していること自体、最初から成立しない。なぜなら本来、先占の対象は「無主地」(terra nullius)でなければならない。しかし、1895年より300数年前から、釣魚台列島はすでに台湾の付属島嶼であり、琉球の一部などではなかった。1895年より200数年前から、これらの島嶼は台湾とともに清国の領土に組み入れられ、無主地ではなかった。そして、この事実は当時の日本及び琉球当局や学者にも認められていた。そのため、日本の釣魚台列島に対する主権の主張は、根拠が無く、国際法上では「最初から無効」(void ab initio)であり、わが国に対して何ら拘束力はない。
(2)1885年日本は一度盗み取ろうとしたが、実施するまでには至らなかった
なお、釣魚台列島は日清戦争で台湾が日本に割譲されたことと切っても切れない関係にある。日本は1879年正式に琉球を併合した後、積極的に領土を広げようとした。現在日本の外務省外交史料館、国立公文館及び防衛省防衛研究所付属図書館に所蔵された関係文書から見れば分かるように、1885年(明治18年)から、日本政府は釣魚台列島を盗み取ろうと企んでいた。1885年、内務大臣である山県有朋が沖縄県令の西村捨三に釣魚台列島を探査した後、国標を設置するよう要求したが、西村捨三が探査した後、当該列島は昔から中国に発見・命名され、また史料にも記載されているため、この時期に国標を建設するのは時宜に適さないので、暫く見合わせるべきと提言した。内務大臣はさらに極秘に外務大臣井上馨にも意見を伺い、井上馨は極秘文書「親展三十八号」をもって内務大臣に、「最近、中国の新聞はわが国が台湾付近にある清国所属の島嶼を占拠しようと企んでいると報道しており、清国の疑念を招かないように、国標を建設するには他日を待つのが良い」と返信し、そして探査のことを「官報及び新聞紙に掲載する必要はない」と要求した。明治政府の国標建設案は、これで中止したわけである。
(3)日清戦争で清が大敗し、日本がそれに乗じて盗み取った
清の光緒20年(1894年)7月、中日間に日清戦争が勃発した。同年10月、日本が海陸の戦場でともに決定的な勝利を収めた後、明治政府は「今昔の情況は違う」と、機が熟したと見て、1895年1月14日に内閣で秘密決議を通して、沖縄県の釣魚台列島における国標の建設を承認した。
しかし、上述した内閣の秘密決議は、慣例である天皇の勅令で正式に頒布されることはなく、外部はこのような「先占」に対して、知る由がなかった。したがって、このような決議は政府内部の意思表示に過ぎず、対外的に効力がなく、国際法の要件にも合致しない。当時の清国を拘束することはできず、勿論、現在の我が国を拘束することもできない。実は、日本政府が釣魚台列島を盗み取るという決議をした後も、国標の設立や派兵など具体的な行動でこれらの島嶼を占拠したことはなかった。琉球政府が釣魚台列島に国標を立てたのも、1969年5月に、釣魚台列島をめぐる係争が発生した後である。日本が釣魚台列島を盗み取った3カ月後(1895年4月17日)、清国は日本に台湾を割譲する《下関条約》に調印した。双方は5月8日に引継ぎを行い、台湾(釣魚台列島を含む)が正式に日本の領土となった。そのため、日本が釣魚台列島の主権を取得したとする根拠は国際法違反で最初から無効である「先占」というのではなく、当時の国際法に違反しない「割譲」によったものである。
日本政府は1971年、「1885年以来、日本政府は沖縄県当局を通して、再三にわたって尖閣諸島での実地調査を行い、慎重に尖閣諸島は無人島であることを確認しただけでなく、清国に統治された痕跡はない」と宣言した。このような言い分は、現存する1885年から1895年にかけての明治政府の関連公文書から見れば、完全に事実無根であることを証明できる。鍵となる証拠の一つ目は、1892年1月27日、沖縄県の丸岡莞爾知事が樺山資紀・海軍大臣に書簡を出し、釣魚台列島は「探査未完成」の島嶼であるため、海軍に「海門艦」を釣魚台列島に派遣し、実地調査を行うよう要望した。しかし、海軍省は「季節険悪」を理由に派遣しなかった。鍵となる証拠の二つ目は、1894年5月12日、沖縄県知事の奈良原繁が内務省へ送った書簡では、「明治18年(1885年)から本県の警部が調査団を派遣して以来、その間に実地調査を行っておらず、確実な事項を報告できるようなものはない」と表明した。上述した公文書は、現在日本政府が宣言した「尖閣諸島に対して再三にわたって徹底的な調査を行った」ということをきっぱり覆すものであるほか、当時の日本政府が確かに日清戦争の勝利に乗じて、釣魚台列島を盗み取ったことを証明している。
(4)第二次世界大戦後、釣魚台列島は台湾とともに中華民国に返還しなければならない
日本は日清戦争で中国が敗戦したことを機に釣魚台列島を盗み取った。釣魚台列島はもともと台湾の一部であり、一方、台湾は《下関条約》によって日本に割譲され、当該条約の第2条では台湾の範囲を「台湾全島とそのあらゆる付属島嶼」と規定しており、釣魚台列島は勿論「各付属島嶼」に含まれて一緒に日本に割譲されたものである。したがって、1895年以降、日本が台湾(釣魚台列島を含む)を50年間にわたって統治した唯一の法律的根拠は《下関条約》である。
1941年12月9日、我が国は真珠湾事件の翌日に日本に宣戦布告した際、明白に「中日間に締結されたすべての条約、協定、合同等を一切破棄する」と表明した。1943年12月1日、中華民国とアメリカ、イギリスが共同で発表した《カイロ宣言》(Cairo Declaration)も、明確に連合国がカイロ会議を開く目的を、「日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り、日本国は又暴力及び貪欲に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」だと謳っている。1945年7月26日、中華民国、アメリカ、イギリス、ソ連等の連合国が共同で発表した《ポツダム宣言》(Potsdam Proclamation)第8条では、改めて「《カイロ宣言》の条件は、必ず履行させなければならない」と定めた。1945年9月2日、日本の天皇が連合国軍の最高元帥に無条件で降伏する際に調印した《日本降伏文書》(Japanese Instrument of Surrender)の中でも、明白に《ポツダム宣言》を受け入れると宣言した。こうして、《日本降伏文書》は《ポツダム宣言》を受け入れ、《ポツダム宣言》は《カイロ宣言》が実施せねばならぬと規定しているので、実質上《日本降伏文書》は三つの文書を明確に結び付けたのである。この三つの文書は米国務省が1969年に出版した《米国1776-1949年条約及び国際協定編纂》第3冊に収録され、また《日本降伏文書》は1946年の《米国法規大全》第59冊と1952年の《国連条約集》第139冊に収録され、日本やアメリカ、そしてわが国に対していずれも法的拘束力を持つ。それと同時に、1951年の《サンフランシスコ講和条約》と1952年の《日華平和条約》は、明確に「日本は台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定している。1952年の《日華平和条約》は、更に第4条に「1941年12月9日前に中日間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となった」と規定した。第10条も台湾と澎湖諸島住民の中華民国国籍を確認し、書簡第1号も、この条約は中華民国の領土に適用すると規定している。したがって、釣魚台列島は中華民国の領土に復帰するべきである。
(5)日本は国際法上の「時効」原則を用いて、釣魚台列島の領有権を取得する根拠にしてはならない
1971年、釣魚台列島の領有権をめぐる係争が発生した後、日本は「明治28年(1895年)から今日まで(1971年)、世界のどの国からも抗議を受けず、平穏裡に当該列島を使用してきた」と主張している。この言い分は成立しない。1895年から1945年まで、日本が台湾を統治した期間中に、釣魚台列島は台湾の付属島嶼である以上、台湾とともに日本の領土に編入され、日本人が当該列島を使用することは、当然他国からの抗議を受けていなかったからだ。
その他、1945年から1972年までに米軍の信託統治期間中に、釣魚台列島は日本の統治管轄下にあるものではなく、またどの国の名義下で統治されたものでもない。米軍の信託統治は何ら主権上の意味を持たない。その期間中に、我が国の国民、特に漁民は、常に当該列島を使用し、しかも阻害されたこともなかった。さらに当時の米軍は1954年の《中華民国とアメリカ共同防衛条約》に基づき、台湾海峡の安全防衛に協力しているので、中華民国はアメリカと本件に関して交渉する必要もなかった。1968年から今日に至るまで、釣魚台列島は大きな係争問題となり、中華民国政府も再三にわたって領有権を主張し、日本に対しても何度も抗議を提出しており、日本が指摘するような時効の問題はそもそも存在しない。
1972年、アメリカが釣魚台列島を琉球諸島の行政権とともに日本に渡したことに対して、アメリカは1971年5月26日に正式に我が国に、アメリカは日本から取得した行政権を日本に返還したこと自体は、中華民国の釣魚台列島に対する領有権の主張を損なわないと表明した。アメリカの上院は、その後追加説明を行い、領有権問題に対して中立的な立場をとっており、行政権移転はどの係争者の基本的な立場にも影響しないと表明した。これらの関連文書から見れば、アメリカは釣魚台列島の主権問題に対して中立的な立場にあり、中日双方が協議を通じて解決すべきとしている。この立場は、今も変わっていない。況してや《ポツダム宣言》によれば、「日本の領有権は本州、北海道、九州、四国及び我らが決めるその他の小さな島々にある」と定められている。《ポツダム宣言》はアメリカでは条約と見なされており、《日本降伏文書》にも盛り込まれ、アメリカに対して拘束力がある。そのため、アメリカも一方的に釣魚台列島の領有権がどちらに帰属するかを決める権限を持っていない。
三、結論
釣魚台列島は15世紀から我が国によって発見・命名・使用され、明代(15世紀半ば)から海防に組み込まれた。清代(17世紀後半)以降、台湾とともにわが国の領土に編入され、台湾の付属島嶼で台湾府の管轄下に置かれ、台湾の不可分の一部となった。彭佳嶼と同様に、わが国固有の領土である。
19世紀末期、日本は拡張主義に駆られ、釣魚台列島を盗み取ろうとした。最初は実力不足で動けなかったが、10年後の日清戦争で清国を大敗させたのを機に秘密裏に盗み取り、いまもなお1943年の《カイロ宣言》、1945年の《ポツダム宣言》、1945年の《日本降伏文書》及び1952年台北で調印された《日華平和条約》の規定に基づく中華民国への返還を履行しようとしないのである。日本のこのような行為は、我が国と日本との友好関係に悪影響をもたらしているだけでなく、地域の安全保障や安定に対しても害を与えかねない。
1960年代末期に釣魚台列島を巡る係争が発生した後、わが国は「主権はわが方にあり、係争を棚上げし、和平互恵、共同開発」の政策を堅持し、また《国連憲章》及び国際法が規定した平和的紛争解決メカニズムにより、日本と交渉して係争を棚上げし、共同開発や、資源を共同利用しながら領有権の護持や漁民権益の保護、及び係争解決という目的に達したいと願っている。
2012年9月、日本政府が釣魚台列島を「国有化」したことによって東シナ海の緊張を引き起こした。わが国は直ちに抗議し、また馬英九総統が同年8月5日に提言した「東シナ海平和イニシアチブ」に基づき、各関係者に(1)自制し、いたずらに対立をエスカレートさせるべきでなく、(2)係争を棚上げして、対話と意思疎通を図ることを諦めず、(3)国際法を遵守し、平和的手段で紛争を処理する、(4)コンセンサスを求め、「東シナ海行動基準」を制定する、(5)東シナ海の資源の共同開発を進めるメカニズムを構築する、などを呼びかけた。具体的なステップとしては、「三組の二者間対話」と「一組の三者間対話」の二段階に分けて、「対抗の代わりに対話を」、「協議によって争議を棚上げ」という方法で、東シナ海の資源の共同開発を進める可能性について模索する。
「東シナ海平和イニシアチブ」が提出された後、国際社会からの重視と評価を得た。2013年4月10日、わが国と日本が第17回の漁業協議を行った後、正式に「台日漁業に関する取決め」に調印した。この取決めは「東シナ海平和イニシアチブ」の平和的手段で係争を解決する精神を体現したものであり、東シナ海におけるわが国漁民の操業権を維持することに成功した。
これから中華民国政府は引き続き釣魚台列島に対する主権の主張を堅持し、また「東シナ海平和イニシアチブ」を踏まえ、平和的に且つ実務的な方式を通して係争を解決し、さらに地域の安全維持のために全力を挙げて取り組んでいく所存である。
【外交部 2013年12月】